HOHOEMI WORLD VISIONS #1
このビジョンは、私が作ってきた音楽の故郷である愛と喜びを基底とした文明世界(とりえるいくつもの未来の一つ)におけるある時空間をAIの力を借りて、ビジュアライズした。
それは、別の角度から言えば、現在私たちが展開している「SINGA - 歌う瞑想」を通じて提案する新時代の人間性(意識の力に自覚的であり、平和・創造的な存在状態)をスタンダードとした人間たちから紡ぎ出される21世紀の文明における、ある未来の地点において、実現される世界の光景でもある。
自然とテクノロジーが融和し、AIとロボットと人間と自然物が、互いに手を取り合って、永遠の遊戯の場(安心と喜び)とこの地球をアップデートした先の景色だ。
初めは、ほんの遊びに過ぎなかったことが、いつの間にか真面目な戦いになってしまった、この世界を、今一度、神々の遊びであることを思い出ししていく。
そして、人間の本性、ニュートラルな状態は、平和・創造的な神性が宿っていることを、明晰さを持って捉え直す。それは科学の視点からも、宗教の視点からも、芸術の視点からもなされていく。
また、第三の視点から申すと、HOHOEMI WORLDというweb3のアイデアからスタートしたワールド・コミュニティも、また、このビジョンへと、向かっていく一つの船である。「真我を生きる」というとなんのこっちゃと、難しくコネクリ回すことはいくらでもできるが、それはシンプルに、私たちを生命の智慧に直結し、エゴ・ドライブ(思考で生きる)ことをやめ、腹の底から、もそもそ出てくる真我・ドライブな存在状態で生きるということである。
実にメカニズムはシンプルで、頭の中の思考を鎮め、内なる感覚的情報場に、心身を緩めてドボンと浸るということで、真我の意識は覚醒する。
これは、さらに具体的に言えば、未来のことを憂い恐れたり、過去を悔やみ怒りや憎しみを反芻し続ける思考の回路から、自らを解き放ち、”今を生きる”ということへと自らを移行させることだ。そして、その際に、これまでの凝り固まった習慣や、思い込みもまた融解するだろう。
ZENにおいても、Upanishadoにおいても、全ては、この”今を生きる”ということが、真髄であり、そこから全ては展開するのだ。
そして、何をこの世界にもたらせばいいのか、”私”という個体として生まれた本当の意味とは何か。内なる生命の蠢き、響として、はたと腑に落ちるのである。
そのありようを生きるとき、その人の世界は、終わりのない遊戯の場へと変貌する。
これは、web3の自律分散型の理念に惹かれ、私が、イーサリアムのコアアイデアに書かれた”Infinite Garden”に共鳴した理由でもある。
競争や戦いを前提とした、 “Finite Game”(制限のある遊び)ではなく”Infinite Game”(無制限の遊び)という遊びを続けるための遊びという、アイデアだ。
そして、それはかつてミヒャエル・エンデが作品を通じて構想した、世界観とも通じ合うものがあるのだ。
始まりは、ほんの遊びだったものが、生真面目な戦い、大真面目な戦争へと発展し、狂気となる。そこで、培われた信念体系が、実に20世紀の節々に、見られ、いまだに人々の多くをこのマトリックスの中に留めている。教育の中で、社会の中で、そのような競争・分離の意識があまりに当たり前となって、平和で、友愛に満ちた人間の文明を、絵空事、ユートピアとして、片付けてしまう浅はかな人間性へと、それらのマトリックスは、畢竟導いていく。
それらの、ほとんど気づくことが難しい無意識下の、一人一人の信念が、総体としてのこの地球を創っている。そこを自覚した時、私たちは、自分に降り注いでいる神々の後押し(それは、内なる神性を通じて認識される)に、感謝と、感動を持って、接することができる。すると私が行う一挙手一投足が祈りであり、聖なる遊びであることを、誰に教えられることもなる知ることになる。
それが、私たちを、いつも守り、そして安心と喜びに満ちた人生を創造することの、最も核なる響きなのである。
Essay written by Shinta Sakamoto
2025/4/24 22:04